更新情報

発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群

呼んでみませんか?

突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 考える「ダウン症」③ 】

Blog

 売り掛け声がそのまま怒声に変わったから、その周りにいた客の皆が、

 " 何?"

 と思い、その声の方を見た。買い物客のざわめきが、一瞬、波が引けるかの様に静かになった。僕はどうなることかと固唾を呑んで見守っていた。

 すると、少し離れたところから若い女性が現れた。若いといっても30代半ば頃の印象を受けた。どうやら子供の母親と思われた。それに続いて父親と思われる同じ年頃の男性が現れ、子どもの名前を呼びかけながら近づいてくるのが分かった。名前ははっきりとは聞き取れなかった。

 「どうしたの?」

 その問いに店員が答えた。

 「お宅の子どもが売り物を食べたんだよ!」

 「本当ですか?」

 「あんたのガキの口を見れば分かるだろ!」

 そんな言い方はないだろうに、と僕は思った。言葉に攻撃的な棘を感じた。威勢よく売りかけ声を出す人はこんなものなのか。いや、本当は違う気がする。彼は興奮し、頭に血も上っていたのだろう。

 「すいませんでした」

 母親と父親が並んで頭を下げた。

 「すいませんって、自分の子供ならちゃんと見てろ!」

 「すいません、本当にすいませんでした」

 僕はこれで話は終わると思った。だから、集まる人混みを尻目に彼女を探し始めた。もう買い物も終わる頃だろう。もういい、そう思ってその場を立ち去ろうとした。

 ところが、まだ終わらなかったのだ。

 子どもの両親の謝罪は、いつの間にか必死の「すいません」になっていた。

 「すいません!!すいません!!すいません!!」

 静まりかえっていく売り場と対照的に二人の言葉が響いた。子供の父親と母親の謝る声がはっきりと聞こえてきた。その二人の声がより大きく聞こえるようになり、それにつれて多くの買い物客が足を止めてそちらに視線を向けた。その視線が多くなるほど、二人の声がより大きくなっていく気がした。

 店員の前でただひたすらに頭を下げる二人。

 何も分からずに立ったままの子ども。

 店員は腕組みをしていたが、固まった体を崩そうとしない。

 居ても立ってもいられなくなった僕は、その場を去って店を出た。彼女を探すのも忘れ、そのまま店を出て駐車場に向かい、真っ直ぐ車に戻ってしまった。

 車のドアを閉めてからようやく彼女のことを思い出したが、僕が店の中に居なければ車に戻って来るだろう、と高をくくった。とにかく、一人だけになりたかったのだ。何と後味の悪いことだろうか、と思った。

 だが、考えてみれば、数日前の僕はあの店員と変わらなかったのかもしれなかった。だからこそ僕の中で不快な出来事でもあった訳だが、一人になって考えてみて改めてそう思った。

 もう夕暮れだった。季節は初夏のさわやかな頃で、日も落ちた後の長い黄昏の頃だった。僕はようやく周りを見る余裕も出来、車の外を眺めて彼女の姿を探したりしていた。買い物を終えた人々が店から吐き出され、家路に向かう流れになっていた。

 すると、ちょうど僕の車の鼻先を、さっきの親子連れの3人が歩いていく姿が見えたのだ。僕は両親を見た。顔は一瞬見えただけだったが、二人の口は共に真横に閉じられていた様子だった。父親はややうつむき加減で歩いていた。母親は真っ直ぐ前を見ていた。二人で子どもの手を引き、僕の左斜め前方の道を挟んだ向かいに、頭から入れてお尻が見える形で停めてあった車の脇で止まった。白いワンボックスタイプの普通の車だったが、それが親子の車だった。子どもを先に乗り込ませると、それに母親と父親が続いた。

 不思議だった。誰も運転席に乗らなかったのだ。僕はそういうタイプの車を買ったことがなかったから、もしかしたら " 後ろの座席からでも運転席に行けるのだろうか " などと思い、それもあったからこそ、ガラス越しに映る親子の動きをじっと見つめていた。車のガラスは軽くスモークがかかっていた。だが、中にいる人の姿はガラスを通した夕日でよく分かった。どのくらい僕はその姿を見詰めていただろうか。動きの止まった三人は、一つの固まりになっていた。そして、その塊の正体が分かった瞬間、僕は吸いかけていた呼吸を止めてしまった。

 三人は子どもを間に挟んで肩を抱き合っていた。その両親の肩が上下に大きく揺れて波打っているのが分かった。いや " 波打つ " と言うのは余り正確でない。まるで " しゃっくり " のような動き、と言った方が正確だった。おそらく、それは " 嗚咽 " なのだろう。

 僕には、彼らの車も一緒にゆれているように見えてしまった。いや、車自体が泣いているかとさえ思えてしまうくらいだった。

 僕は悔しさ、口惜しさで歯を食いしばった。何が悔しいのか、何が口惜しいかさえ分からなかった。それは僕自身へのものであり、あの店員に対してかも知れず、そしてそれは何者に対してでもないのかもしれなかった。ただ、ただ、悔しくて、口惜しくて、やりきれなかった。

 ガチャ、ガチャ、トントントン、車のウィンドウを叩きながら、

 「ねえ、開けてよ」

 という彼女の声が聞こえた。その瞬間、つい、

 「うるさい!」

 と僕は声を荒げてしまった。次の瞬間にふと我に帰り、彼女の顔をちらっと見ると僕は車のロックを解除した。普段はしないのに、いつの間にか車のドアのロックを掛けていた。

 「どうしたのよ」

 といいながら車に乗り込む彼女は、少し驚き、戸惑っている風だった。普段の僕は声を荒げることなど余りないからだ。

 「ごめん、なんでもない」

 そう言うと、僕は彼女の荷物を受け取って後ろの座席に置いた。僕の顔を改めてみた彼女は、それ以上何も言わなかった。僕の感情が何かに対して高ぶっている、それを彼女も感じたからだった。こういう時、彼女は何も言わずに僕が話を始めるのを待つだけだった。いつもと同じだった。

 僕は車のエンジンをかけると何も言わずに車を出した。ただ、あの車はずっとみていた。サイドミラー、ルームミラー、どこかにあの家族の車を探していた。そして、車は見えなくなった。車は見えなくなったが僕の眼にあの車は焼きついていた。そして、何年も経った今でも、車種と色とをはっきりと思い出すことが出来る。多分、一生忘れられないのだろう。

 その後、あの親子をスーパーで見かけたことはない。いや、ただ僕が見かけないだけでお店には通っているのかもしれないが、少なくとも、あれ以来、僕は一度も見かけていない。

 もし、あの子供が普通の子だったらどうだったのか。

 おそらくだが、

 「ちゃんとお母さんに買ってもらわないとだめだよ」

 それだけで終わったのかもしれない。冒頭に書いたように、あの子がダウン症だったからこんな出来事になったのかは本当のところは分からない。ただ、そんなことにふと気がついたのも、大分時間が経った後のことだった。

                                                〈了〉


ダウン症自体が障害ではありません。

その点は誤解がなければと思います。

私にも答えはありません。

ただ、考え続けていこうと思っています。

そして、これを読んだ皆さんにも、考え続けてほしいと思っています。



(2015.3.20 公開 2015.6.23 更新)

新生児科医、小児科医、そして今は精神科医として成人したダウン症の方々の診療もしています。皆さんは、ダウン症と言うと疾患というイメージが先行していると思います。しかし、ダウン症の人々が、どんな「心」を持っているか、考えたことのある人はどの位いるでしょうか?


ちょっと頑固かもしれません

急な状況の変化に弱いかもしれません

けど、とても優しい人が多いと思います

他人のことを思いやれる気持ちを持っている人が多いと思います

とても素敵な感受性を持っている人も多いと思います

しかし、不安が強い人もいます

何かあるとパニックになってしまう人もいます

優しさ、そして不安、等、感じる気持ちは同じです

「心」は、人はみな同じだと思います


障害とは社会が作ったものだと思います。社会の側が障害を規定するのだと思います。生活をしていくという点で、普通の人に比べてハンディを持っているかもしれません。しかし、社会が変われば、障害ではないのかもしれません。


そして「心」は同じです。

そのことを多くの人々に知って欲しい、そう思っています。

Blog