発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群と
呼んでみませんか?
突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
これも医学生の頃のことを書いたエッセイ風読み物です。
小児の難病の現実を、少しでも知って頂けたら、という気持ちです。
「ある少年の死」
「死にたくない、死にたくない、死にたくない」
この言葉は今でも僕の脳裏に焼きついている。ある少年の言葉だ。彼はうなされながらこの言葉を発していた。僕が実習で始めて病棟を訪れた日、指導医について患者紹介のために各部屋を回っている時、僕はそれを聞いた。そして、その1ヵ月後、彼は17歳の短い人生を終えることになった。
彼は5歳の頃から " 若年性関節リウマチ " と闘病してきた。字面通り、リウマチの子ども版と言ってもいい。リウマチと言うと、お年寄りが関節が痛いとそれを何でも " リウマチだ " なんて言っているが、本当のリウマチは時に命を奪う全身病(自己免疫疾患の一つ)である。
初めの症状は発熱だった。異常に長引く発熱があり、かかりつけの小児科から大きな病院に紹介された。若年性関節リウマチは難病の一つである。症状として発熱、関節痛、発疹がみられ、診断は慎重に検討されたが、若年性関節リウマチと診断せざるを得なかった。
初めの頃は症状も軽く経過した。アスピリンなどの使用だけで症状もコントロールされ、ほとんど入院することもなかった。ただし、体中の関節に常に痛みが残り、特に両足首の関節に症状が強かった。この兆候はこの疾患では " 予後が悪い " とされている。残念なことに、それは当たってしまった。
診断から1年も経たずに全身の発熱が著明になり、それまでの治療は限界になった。そのため入院してのステロイド治療が始められることになった。アスピリンは非ステロイド剤の代表みたいなものであるが、それで病気がコントロール出来ないと、いよいよステロイド剤を使わないと症状が抑えられなくなる。
治療薬にステロイド剤が導入されてから発熱と関節痛は治まり、また退院しての生活となった。小学校に入った時、彼はステロイド剤を内服しながらの生活だった。ステロイド剤を使い始めてからは、むしろアスピリンを使っていたときに比べれば症状が治まり、それまでの微熱や関節痛もかなり減り、傍から見れば本人は楽に過ごせていると思われた。そして、実際もそうだった。しかし、このステロイド剤は効果は大きいのだが、反面、副作用もまた強いという現実がある。
彼の苦しんだ副作用は、成長障害、骨粗鬆症、そして感染症だった。
ステロイドを長期内服していると低身長、肥満になってくる。子どもの頃はその体型は " ぽっちゃり型 " でかわいい範囲とも言えるが、段々とそのことで " いじめ " に遭うようにもなるし、成長とともに自分でも他の子どもと違った体型を、よりはっきりと自覚してくる。子どもは敏感だ。思春期になれば大きな悩みになる。実際、小学校時代、彼は " いじめ " にあった。
さらには骨粗鬆症によって骨折もした。小学校2年で転んで右腕を骨折して以降、彼は体育の授業や激しい運動は避けていた。体育の嫌いな子どもには羨ましいなどと言われそうだが、常に体育館や校庭の端で見学をしているしかない本人にとっては苦しみであった。
またステロイドは免疫能を低下させる。そのため何度も肺炎で入院もした。更に悪いことにリウマチではリウマチ特有のリウマチ肺となるが、それもまた肺炎にかかりやすくなる。毎年冬は家族にとって憂鬱な季節になった。風邪一つでも神経質になる。家族で風邪引きが出れば、その者はしばらく親戚のうちに寝泊りするくらいに気を遣った。
小学校時代は入院も時々したが、それでも何とか大過なく過ごすことが出来た。病状が大きく悪化してきたのは中学校に入ってからだった。
リウマチ肺が悪化し呼吸状態が悪くなり、中学1年の冬に3ヵ月も入院した。一時意識が低下した時期もあったが、この時は治療に反応もあって何とか回復をみた。
再び病状が悪化したのは中学3年の夏だった。またリウマチ肺の悪化から呼吸状態が悪くなり、自発呼吸が危うくなり気管内挿管もされ、一週間ほど人工呼吸器を使用しなければならなかった。治療の甲斐もあり、再び呼吸状態は改善し、秋の終わりには学校生活に戻ることも出来た。しかし、今後も同じことを繰り返すだろうと家族には説明がなされた。今後は厳しい結果にもなり得る、と。それでも再び学校に行けるようになった彼の姿を見て家族は希望を持っていた。
高校受験も乗り切り、彼は希望していた高校に通えるようになった。身長は高校入学の時点で140cmほどと明らかに低く、その上身体も弱かったが、彼がなつっこい性格だったからか友達は多かった。僕が病棟に通っていた頃も、休みになると彼の友達が多く訪れていた。因みに、その友達には " いい子 " が多いな、というのが僕の正直な感想だった。彼を思い遣れるような心根を持った子どもがこんなにもいっぱいいるのかと思うと、僕はなんだか嬉しかった。
僕が実習に行った頃、彼の病状は喋ることが自由に出来ないくらいに悪化していた。高校2年生になった直後から彼は再び入院をしていたが、僕が実習に行ったのは8月の後半だったから、実に半年近くも入院をしていたことになる。
呼吸状態は今までで最悪だった。入院してすぐに気管内挿管され人工呼吸管理になっていたが、悪化の一途を辿り、気管切開を施されていた。気管内挿管は口から管を入れるが、長引いてくると喉の下の辺りを切開して呼吸管理をしなければならなくなってくる。それを気管切開と呼ぶ。呼吸状態がかなり悪い証拠でもあった。正直なところ、命がいつ終わってもおかしくない状態だった。人工呼吸器のサポートがなければ自分の呼吸だけでは体を保てなくなっていた。酸素を目一杯使っても呼吸が苦しい状態が続き、喋るどころではなくなっていた。もともと気管切開をされると喋るのは大変なのだが、それに輪をかけて、であった。彼の部屋では常に精一杯の呼吸音が聞こえてくる。シュー、ハー、シュー、ハー、呼吸器のサポートがあってギリギリの息が続いている状態なのだ。
患者の苦しみが増してくると、少し鎮静をかけて楽にしようとすることが多い。うつらうつらの状態を作り、楽にしてあげる、ということになる。彼も「本人が辛いだろう」と考え主治医は鎮静をかけたのだが、その眠い状態が " 怖い " と言うことで鎮静はすぐに中止になっていた。眠い状態が彼にとっては " 死の恐怖 " につながっていたのだ。だが、それと引き換えに呼吸の苦しみとの戦いとなっていた。それがジリ貧で続いていたのだ。
17歳と言えば大人だ。自分の病気のことも理解している。それが、治る見込みが少ないことも、そして今回の入院がどれだけ悪い状態かも分かっている。一番多感な年頃と言えるだろう。大人になる手前、自分の将来にいろんな夢を持っている年頃だろう。それが、ベッドの上で、死の恐怖との戦いを強いられている。
彼は夜眠るのが怖いと言っていた。眠ると自分が死んだ夢を見るのだと言う。彼はうなされると「死にたくない、死にたくない、死にたくない」と僕でも聞き取れる声で言った。17歳の子の「死にたくない、死にたくない、死にたくない」という言葉は、正面から受け止めるのは本当に辛い。しかし、僕よりも、彼の側でずっと付き添ってきた家族の方がもっと辛いだろう。彼には20歳になるお兄ちゃんがいるが、彼は辛くて病棟に来れないことが多いのだとも聞いた。病室の外まで来るのだが、中に入れずに帰ることも度々あると聞いた。二人だけの兄弟、身体の弱かった弟を常に守ってきたお兄ちゃんだった。
彼の自宅はちょうどこの頃、建て替えをしていた。家が古くなり建て替える予定が元々あったのだが、将来呼吸器が必要になることは分かっていたため、彼が呼吸器をつけたままベッドのままでも帰れる部屋も設計されていた。その建て替えの予定を大幅に早めたと聞いた。今回の入院で、主治医から呼吸器を外せる見込みはこの先極めて少ないと聞いたため、彼の部屋を作るため予定を最大限に早めたと聞いた。せめて、家にもう一度帰してあげたい、せめて、出来るなら、家で彼を看取りたい、そういう願いが込められていたのだった。
しかし、その家族の想いは通じなかった。
彼が亡くなったのは9月に入ってすぐの月曜日、早朝5時だった。主治医はその時には僕も呼ぶから、と言っていたが、呼ぶ余裕すらなかったらしい。朝の7時過ぎに病棟に行って、僕は初めて彼の死を知った。その日は病棟に入った時からなんとなく元気のない雰囲気を感じていた。普通の大人の病棟では患者さんが亡くなることは、ある意味、日常の一つにもなっている。ところが小児科では病棟で患児が亡くなることは滅多にない。だから、病棟で患児が亡くなると本当に病棟中が暗くなる。皆の元気が消える。
もうすでに綺麗に身支度は終わっていた。側にいた家族にはもう落ち着きも出始めていた。分かっていた死ではあった。死にたくないと言いながら苦しんでいた。ようやくそこから解放されたと言っていいのだろうか。10時頃にはお見送りをするとのことで、病棟のスタッフの皆が集まった。夜勤だった看護婦さんたちも皆帰らずに残っていた。
時間になり、彼はお父さんの車に乗せられ、出来たばかりの彼の部屋に行くことになっていた。
「皆さん、ありがとうございました」
両親はすでに冷静だった。誰も言葉がなかった。ただ、ただ、黙って車を見送るだけだった。
見送った後、スタッフが病棟に戻ってきたが、同じ病気で入院している幼い子達が僕らを見つめて、
「お兄ちゃんは?」
と聞いてきた。小児病棟には若年性関節リウマチで入院している子どもが実は他に3人いた。小学校に入る前の子どもが1人、小学校低学年の子が2人。彼は病棟ではみんなのお兄ちゃんだったのだ。そして、その彼の死を子どもたちも察しているのだろう。そして、そこに自分の未来を重ねているのかもしれなかった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
彼が幸せだったとは、正直なところ僕には思えない。「死にたくない」と言って死の恐怖と戦いながら、これからしたいことも一杯あっただろう若い命が消えていくことは、いかにしても " 幸せ " だったとは言えないと僕は思う。それでも、それまでの彼の人生で、楽しかったこともあるはずだ。家族と過ごしたかけがえのない時間があるはずだ。その幸せが、彼の家族に残ることを祈りたい。
しかし、彼は彼を取り巻く家族や友達にかけがえのない時間を与えてくれたのだとも思う。その時間は各々の人生の大きな部分を占めていると思う。それを「思い出と共に」と言ってはいけないだろうか。
こうは言えないだろうか。
彼が生きていた間、彼と家族は本当に " 生きて " いた、と。
そして、これからも家族の中に彼は大きな存在として生き続けると。
彼の為に作ったとも言える家に住み、彼と共にこれからも生きるんだと。
悲しみと不幸が違うものであるならば、そう思ってみたいと思った。
〈了〉
※ 若年性関節リウマチは経過の個人差の大きい疾患です。軽症で完治する人もいます。
※ この疾患=予後不良ではありませんので、その点は誤解のないようにお願いしたいと思います。
(お願いです)
この作品はフィクションです。しかし、同じ難病で苦しんでいる子が現実にいます。
ステロイドが悪だとか、難病になったのには何か因果がある、などと言うことだけはやめて下さい。
また免疫疾患に対し、免疫力が上がれば難病も治る、そういうことを安易に言うことも慎んで欲しいと思います。
そういったことは命への冒涜だと思います。また大人の言うことではないと思います。
念のため申し上げておきたいと思います。
(2015.3.26 公開 2015.7.6 更新)
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