発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群と
呼んでみませんか?
突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
小学校2−3年生の頃のことです。
当時の私は雷の「ゴロゴロ」がとても怖い純真な(?)子どもでした。ゴロゴロが鳴ると怖くて怖くて仕方ありませんでした。そんな私に母親が教えてくれました。
「雷が来たら、節分でまいた残りのお豆を歳の数だけ食べると雷さんがどこかに行っちゃうよ」
と。
純真な(?)私はその言葉を信じました。私の家庭は典型的な共稼ぎ家庭で、私はいわゆる「鍵っ子」でした。晴れていれば放課後は裏山で毎日遊んでいました。ある夏の日、雨で外に遊びにいけない夕方、1人で留守番をしていると、あの嫌なゴロゴロがやってきました。神棚に木の升があり、そこに炒った節分の豆が残っているのは知っていました。私はイスを使って高いところにある神棚の中の升を取り、怖いのですぐに豆を一粒一粒食べました。すると、歳の数を食べる頃には、あの嫌なゴロゴロが遠のいていきました。その日はほっとしたことだけ覚えています。
しばらくして、また夕立の日がありました。またゴロゴロです。また1人で留守番をしていた私はすぐに神棚から升を取り、また歳の数だけ豆を食べました。すると、また歳の数を食べて少しすると、ゴロゴロが遠のいていくのです! 不思議でしたが、本当にお豆を歳の数だけ食べるとゴロゴロは遠くに行ってしまうのです。この時の感動は今でも覚えています。
しかし、この感動は裏切られていきます。
また別の日に、またゴロゴロがやってきました。また豆を食べました。けど、歳の数を食べてもゴロゴロは遠のきません。むしろ近づいてきます。怖いからもっと豆を食べました。けどだめでした。それでも、怖いのを我慢していたら、ようやくゴロゴロが遠のいていきました。また別の日に、またゴロゴロがやってきました。また豆を食べました。その日は、升にあった豆が無くなるまで豆を食べました。それでもゴロゴロはやまず、怖いのをかなり長い時間我慢して、ようやくゴロゴロは遠のいていきました。
ようやく、私は疑問を持ちました。豆を食べることと、ゴロゴロが遠のくことに関係はないのでは?と。それからは、豆を食べてみたり、食べなかったり、いろいろと試してみました。結論は、皆さんも分かるように「豆とゴロゴロは関係ない」です。その結論に至った頃には、雷が光ってから何秒でゴロゴロが鳴るかとか、理科で教わった知識も増え、だんだんゴロゴロも怖くなくなっていました。これは私の子どものころの話ですが、ちょっとこの話を少し分解して考えてみたいと思います。
レベル1
豆を歳の数だけ食べるとゴロゴロが遠のくのを一回経験
この段階ではほっとしたくらい
レベル2
豆を歳の数だけ食べると再びゴロゴロが遠のく
お母さんの言っていたことは本当だ!
歳の数だけ豆を食べるとゴロゴロはどこかへ行くんだ!
すごい!
レベル3
豆を歳の数だけ食べてもゴロゴロがどこかに行かない
何故、豆を食べてもゴロゴロは遠くに行かないのか?
豆を食べてもゴロゴロが遠くに行かない
豆を食べるのと、ゴロゴロは関係ないのか
いろいろしっかり考えてみよう
レベル4
豆を食べることと、ゴロゴロが遠くに行くことには何の関係もない
たしかに、豆を食べている間にある程度時間が経過すれば雷は行ってしまうかも
けど、豆を食べることと雷になんの因果関係もない
考えればすぐに分かること
話は変わりますが、みなさんは「方位取り」って知っていますか? 古い開運法の一つですが、現代ではほとんどの人が知らないと思います。古典文学に詳しい人なら、平安時代の話などには出てきますので知っている人もいるかもしれません。
方位取り
「その年の吉の方角(生まれもっての星とかで決まる方角)に出来るだけ遠くに移動し、60日間、夜10字から朝4時まで眠る。そうすると運が開ける」
このことで本当に開運すると信じる人は、さすがに現代では少数でしょう。信じることは自由ですが、残念ながら効果はないと思います。むしろ、それに効果があると信じる気持ちが強ければ、社会生活の中で自分の考え方や行動が周囲とは少し違っていると感じていたり、少し自分が変だという自覚などがあるかもしれません。むしろ自分の社会判断力を見直すべき機会だと捉えてもいいと思います。もしかしたら、自分の不運の原因に治療できる疾患(発達的なもの)があるのではないか、一度考えてもいいと思います。
おそらく開運するとしてもプラセボ効果だと思いますが、ここは一つ、それで開運した場合を想定してみましょう。例えば、方位取りをしたら懸賞に当たったとか、方位取りをしたら恋人ができた、方位取りをしたら志望校に合格した、方位取りをしたら欲しかったものを人からプレゼントされた、等。
普通に考えれば、方位取りをしたことと、何か起こったことには因果関係はないと分かると思います。それが常識的に妥当な判断だと思います。雷ゴロゴロの話で言えば「レベル2」なのだと思います。
類似した話をすれば「百匹目の猿」の話や「シンクロニシティ」など、疑似科学に分類されるものも、つまりは「レベル2」の話になるのだと思います。疑似的な科学、疑似的な医療、疑似的な信仰には「レベル2」の話が多く存在していると思われます。
※「百匹目の猿」の話やそれに付随するシンクロニシティ的な話はネット情報などで探してみてください。
大人として普通の社会生活をするならば「レベル3」や「レベル4」が求められます。むしろ、それが当たり前だと、皆が普通に思っていると思います。しかし、自分の精一杯で頑張って考えてみても「レベル2」までしか考えられない人がいたとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか?
これは私が診療を通して感じることです。先にも少し触れましたが、発達的特徴から社会常識に不安があると、精一杯考えてもなかなかレベル3やレベル4に至ることが難しく、レベル2くらいの話を信じてしまいがちな人が見られます(知的レベルは高くても)。これは「判断不安」があるからだと思われるのですが、ほかの発達的特徴も合わせ、社会生活での失敗も重なったりして人や社会を信じにくくなってしまっている人がみられます。それ故に、社会からの孤立感を常に持っていて、誤解を恐れず言えば、臆病に社会生活を送っている(だから、余計に開運法などに惹かれたり、疑似的なものに時に多額のお金をつぎ込んでしまう)。
皆さんの予想以上に、レベル2を超えられないことで苦しんでいる人がいるとしたら。
私は、そういう人を、社会が追い込まないような配慮をすべきなのだと思っています。本当は人と社会を誰よりも信じたい気持ちを強く持っているのだと思います。しかし判断不安を併せ持つ場合も多く、だからこそ騙されやすく、辛い経験などを強いられ、余計に人と社会を信じられなくなってしまう。詐欺の対象や悪徳商法の対象にするのは言語道断です。むしろ、判断に苦しんでいる人がSOSを出しやすい社会にし、時に手助けをし、時に優しく見守り、社会からの孤立感が減るようにする。そういう社会を目指すべきなのだと思います。
レベル2とレベル3の間は決して遠い道のりではないと思います。それでも乗り越えるためには努力を要します。諦めずに物事を考え続けて、一つ一つ、一歩一歩、社会常識を身につけていく地道な努力の継続が必要になると思います。そして、発達的特徴に対する治療としてのカウンセリングや薬物療法は有効だと思います。
ちなみに「恵方巻」は、レベル2でも楽しいエンターテイメントの範囲だと思いますから害はないと思います。
(2015.4.11 公開 2015.4.17 更新)
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