発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群と
呼んでみませんか?
突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
①〜⑩までの解説です。
(正常と思われる範囲)
日常生活でまったくストレスなく暮らしている人はまずいないと思います。学校に行きたくないなあ、と思いながら登校したり、会社に行きたくないなあ、と思いながら出社して仕事をしたり。ご近所の町内会など面倒だし無駄だと思いながらも出席して役員をしたり。そういったことは普通にあることだと思います。そして、そういったことを出来ることは心が健康である一つの指標でもあると思います。友人の嫌な面を多少は許せるとか、パートナーの嫌なところもある程度は許せるといったこと等も、心の健康や健全さの指標だと思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
対人関係などで、相手に少しでも嫌な点を見つけてしまうとそれで関係をすべて絶ってしまう人がいると思います。本心ではそうしたい訳ではないと思います。しかし相手のある一つの「失言」がどうしても気になってしまい「合わない」と言って距離をとってしまったり。本来は人や物事の良い面と悪い面の両方をバランスよく受容していける方がいいのですが、そうしてしまう人は、おそらく心の内では自分の行動を長年の悩みとして持っているように思います。対人関係などを「焼畑農法」のようにつぶしてしまってきている人もいると思います。感情の起伏も伴うと二重人格のような人と思われている人もいるかもしれません。そのために職場を何度も変えざるを得なかったりしているかもしれません。本当は人を信じたいのに、人の信じられない面をつい探してしまうようになってしまっていたり。そういったことで切実な悩みがあれば、発達的特徴や愛着の問題を持っている可能性を一度考えてみてもいいと思います。治療によって日常の辛さが減る可能性はあると思います。
(正常と思われる範囲)
何かでミスをしてしまった時など、冷静さを失ってしまうことはあると思います。しかし、頭を冷やして考えて、何らかの対処法をみつけたり、被害を最小限にするようにしたり、そういった行動をとろうとすると思います。大抵の物事は、初めの印象よりも被害は小さいものです。物事を大げさに捉え過ぎず、分解し限局化する。おおむねそれが出来れば健康と言えると思います。通常は人生経験と共に問題対処力は上がると思われます。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
仕事などで何か失敗してしまったとき、自分のすべてが否定された感じがする人がいると思います。やるべき他の仕事も手に付かなくなったり、落ち込みすぎて仕事に行けなくなってしまう人もいるかもしれません。極端な場合、そこから逃げ出してしまう場合もあるかもしれません。しかし冷静に考えてみてください。問題はどのような失敗だったのか、まずどうすればいいのか。そして、本当にそこまで大きく自分が非を感じなければならないのか。正当な範囲の責任は負うべきですが、過剰な負担は感じないように出来れば日常の辛さ感は減ると思います。落ち込みからうつ状態になっている場合はうつ状態に対する治療が必要です。うつ状態ではなく、日常的に物事に対して冷静な対処ができなかったり、いつも問題を大きく捉えがちな傾向があり、そのことで日常生活での心の疲労が大きいならば、発達的特徴に関しての診断や治療が有効な場合はあると思います。
(正常と思われる範囲)
人は高度な文明社会も持っていますが動物でもあり、また多種多様な地球の生物の一員でもあります。そういったことを考えてみれば理解できて受容できることは普通の感覚だと思います。また、仮にあなたが男性だとしましょう。あなたは誰かの息子でしょう。さらには、会社員であり、夫であり、父親であるかもしれません。仕事での立場上しなければならない行動があるかもしれません。しかし、それは仕事での行動であり、業務を離れればまた違う立場になります。家での役割や立場は当然職場とは違います。そういったことは普段気にせず自然にしていることだと思います。また、お店に行けばあなたは「お客様」と呼ばれますが、それがその空間だけでの立場であり、その店員さんにもプライベートな生活があり、その生活の中では必ずしもあなたが「お客様」ではないことは分かると思います。社会や人には多面性があります。あまり考えたことはないかもしれませんが、それを理解し受容できていることは心が健康である証だと思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
子どもの頃、学校の先生を普通の一人の人間として捉えられない感じがあった人はいると思います。たとえば学校の先生がお酒を飲んで酔っ払っている姿をみて、普段の印象とのギャップからものすごく幻滅したり。それを見てから学校にしばらく行けなくなってしまったり。私は小学校低学年の時の女性の担任の先生が結婚をしたとき、それがなかなか理解できなかった記憶があります。通常は徐々に人の持つ社会的な多面性を理解し受容していくと思います。お店の話で言えば、「お客様」である自分に対し過剰に店員さんに誠意や誠実さを求め過ぎる人もいると思います。相手はあくまで業務で対応しているものを、それ以上の完全さを求め過ぎると、相手の小さなミスも許せなかったり、時に「クレーマー」になる可能性もあるかもしれません。これは潔癖傾向が強い場合にあり得ることだと思いますが、実は本人にとってはしたくなくてもしてしまうことであったり、そのことで後悔したり心労を伴うことが実際には多いのだと思います。強迫的な気持ちに対しての治療が有効な場合もありますが、発達的特徴ゆえの潔癖傾向の人の場合、それに合わせた治療によっても日常の辛さが減ると思われます。
(正常と思われる範囲)
たとえば学校のクラスメートを思い浮かべたとき、通常は、割と仲良しの友達と、中間の人たちと、あまり話をしない人たちに分かれると思います。中間の人たちとは必要なときにはコミュニケーションをとったりしても、しかし、日常的には親しい友人たちと過ごすことが多いと思います。このクラスは社会と同じだと思います。とくに、社会には多くの「中間」があります。社会や人の持つ多様性を理解し受容できる。それが健康な姿なのだと思います。実は、社会生活の多くの場面で相手が自分のことをどう思っているのか、そのことすら考えずに過ごしていることの方が多いと思います。この事はあまり考えたことがないかもしれませんが、これが日常であり、健康な証と言えると思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
物事に対して自分にとって白か黒かをはっきりつけたい気持ちが強い人がいると思います。また、相手が自分をどう思っているかはっきり確認しないと落ち着かないとか、自分の関係するすべての物事を知っていたい気持ちが強すぎるとか、あいまいな状態が苦手な傾向の人もいると思います。社会は多様です。柔軟にそれを捉えることができればいいのですが、何事も良いものと悪いものみたいに分けてしまう人もいると思います。そのことで社会生活で実際には窮屈さがあるものの、自分ではそうしないと落ち着かないためやむを得ずそうしてしまうのだと思います。何事も善悪的に分けがちだと、交友範囲や活動範囲がどんどん狭くなると思われます。相手の考えていることは、通常は分からないものであり、深くは考え過ぎないでいられるものです。しかし、それに不安を感じ過ぎるからか、ある共通の考えを持っている人々としか交流できなくなっている人もいると思います。他人からの視線や噂が気になり過ぎている場合、統合失調症を考えなければならない場合もあると思います。あまりにも白黒をはっきりさせたい傾向が常に強い場合は、発達的な特徴が原因にないか一度考えてみてもいいと思います。治療により社会の多様性やグレーなことを受け入れられるようになる場合はあると思われます。
(正常と思われる範囲)
人は様々な欲望を持っています。お金が欲しい自分、物が欲しい自分、異性にモテたい気持ちのある自分。また社会的に良くあろうとする自分に対し、時に他人の不幸を楽しむ自分がいたりするかもしれません。人は場面ごとに人格を持つとも言われます。しかし、自分のなかに様々な人格があることは正常です。むしろ、そうやって様々な自分になって物事を考え、それを自分の中に納めて一つの自分という人格になるのだと思います。通常は社会規範を守りつつ、「してしまう自分」と「そうありたい自分」の二つの葛藤を常に抱えながら、一つの自分を作り上げていると思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
自分の中にある「人の二面性(人をつい悪く考えてしまう気持ちなど)」に耐えられなくて、それがとても嫌でたまらない人もいると思います。純粋といえば純粋なのですが、そのことから逃避しないと日常生活が送れない人もいると思います。逃避の手段は様々です。社会的に不適切な逃避方法は取らないような注意は必要だと思います。発達的特徴や愛着の観点から自分を見直してみることは有用かもしれません。また人は心の中にいくつもの人格を持ちます。自分も相手も同じです。それが過剰に気になりすぎることも、日常的な辛さになり得ます。相手に不信感を持ち過ぎないで納められないと、被害妄想などを持つ場合もあると思われます。自分の中の被害的な人格が過剰に出てしまうこともあると思います。被害妄想については、統合失調症の場合と発達的特徴からの場合の二つを原因に考える必要があると思います(他にはうつ状態や認知症などが原因の場合もあります)。症状が強く継続する場合は受診を考えて欲しいと思います。
(正常と思われる範囲)
ある程度で「まあいいか」と思えて物事を終えることができたり、あまり完全を追求しないでも過ごせることは健全な証だと思います。これはだらしないのではなく、中途の状態や不完全を受容できる力とも言えます。やるべきことと、少し力を抜いていいものとを見極められる力や、柔軟性や受容力があるとも言えるでしょう。なかなかそれが出来ない人は、徐々にそれが出来る様に、自分なりの工夫をしてみることは日常生活を送る上で有用だと思われます。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
細かなことが気になって日常生活がスムーズに送れない人がいると思います。片付けを完全にしないと気持ちが落ち着かないとか、物事や人間関係などでも常に100%を求めてしまいがちで、そのことで結果として自分で自分を追い込んでしまっているような場合はあると思います。グレーな状態を受容できたり、不完全でも受容できたり、物事の進行をゆったり待てる方が辛くないはずです。性格の範囲を超えていると感じたり、日常生活で常に心労などがあったり、何かしらの支障を感じることがあるならば、発達的特徴からの辛さが原因ではないか、一度考えてみることは有用かもしれません。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
(正常と思われる範囲)
つい意地を張ったり、なかなか謝れなかったりするものです。それでも時間が経って意地を張っている自分を認めることができたり、謝れなかったことを謝れたりできれば健全であると思います。ただし、難しいことではあります。これは努力を要する事柄だと思います。だからこその目標でもあると思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
些細なことから一度張った意地を、その後もずっと張り通したり、謝った方がいいことをずっと謝れなかったりすることは、あまり健全でないと思われます。しかし、張ってしまった意地を修正できなくて悩んでる場合もあると思います。また、謝りたくても、謝ると自分のすべてが否定されてしまう感じがしたりして謝れなかったり、完璧主義的な気持ちが心の底にあり、本当は謝りたくても謝れない人もいると思われます。また、些細なことでは謝ってばかりなのに、ある事柄に触れられるととても意地になって絶対に否を認めない人もいると思います。おそらくそういった人は、根底では自分を良くしたい気持ちを持っていると思います。発達的な観点から一度自分を見直してみることは有用な場合が多いように思います。
(正常と思われる範囲)
未解決の物事でも、ある程度その状態のまま心に保持できることは大切な力だと思います。物事を適切に捉え、分かる部分は分かる、分からないところは分からない、そういう風に分解出来ることも大切な力だと思います。物事の見通しが付かなくても、その状況を理解し、それを柔軟に受け入れられることも大切な力だと思います。この項目は心の健康の指標として、もしかしたら一番重要な項目かもしれません。これが出来ることは他の項目も出来る力を持っていると思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
結論を急ぐことで失敗をした経験は誰しも持っていると思います。しかし、意志が弱いのとは異なり、物事が決まらないことに心が耐えられない人もいると思います。それで無理して区切りをつけようとして悪い結果につながったり、周囲との摩擦が生じたり。本来ならもっと柔軟に物事を決めたりして行動すればいいと実は本人も分かっているのだと思います。しかし、決まっていない物事が複数あると混乱してしまう人もいるのだと思います。不安のまま過ごすことが出来ずに早く物事に結論をつけて安心したい人や焦りやすく困惑しやすかったりする人、物事を柔軟に捉えられなかったりする人では、一度発達的特徴が原因かどうか考えてもいいと思います。
(正常と思われる範囲)
人はみな自尊心を持っています。むしろ、自分という自我をしっかり保持していることは大切なことです。そして、自尊心を柔軟にある程度使い分けられることも必要です。子供に接するのに大人の態度でなく、子供の目線で子供言葉になれるのは一例です。社会生活の中で、雰囲気や状況に合わせて自分のプライドを変えることが出来ると日常生活がより楽に過ごせると思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
プライドを常に一定に保持していないと日常生活を送れない人がいると思います。周囲からは愛想がないように見られたりしますが、実は常に緊張もしていると思います。一見強く見えるのですが、周囲からの自分への評価を気にし過ぎたり、時には批判されると攻撃的になってしまったり。もっと柔軟に自分を表現し、他者からの批判を受け止められる方が本来は辛さや疲労感が少ないと思います。また他者の要望をなんでも受け入れてしまう人がいると思います。自分への自信のなさや、見捨てられる不安からそうしてしまうのだと思われます。もっと自立できるといいのですが、自分でもどうしたらいいいのか分からないまま日常を送っているかもしれません。日常的に緊張感や不安がある場合や、プライドに柔軟性がなかったり自分に自信がもてないと感じることが多い場合、発達的特徴や愛着の問題がその原因かどうか、一度考えてみることは有用だと思います。
(正常と思われる範囲)
人は様々な空想や想像をします。良くあることは、好きな相手のことをいろいろ想像してみたり、休みに楽しい予定があることを想像して楽しんだり、仕事上の夢を想像したり、などだと思います。宝くじが当たったら、なんて想像は多くの人に経験があると思います。しかしその空想を収束させて現実に戻ることは出来ると思います。また、何か怖いことを聞いてしまったり想像しても、それで生活が送れなくなる、ということはあまりないと思います。私の子供の頃(保育園か小学校低学年の頃)の出来事ですが「すばらしい世界旅行」という番組でエジプトのピラミッドの特集を見たとき、「ミイラ」をみたら怖くて眠れなくなった経験があります。大人になればそういうことは無くなってきます。それが健康な状態だと思います。
(日常社会生活に支障があると考えられる場合)
何かしなければならない時(仕事中や学校などで)でも何かしらの空想にのめり込むと、そこから抜け出せなくなってしまう人がいると思います。おそらく日常的に空想をしている時間が多いのだと思います。また大人になってからも恐がりが直らなくて、実は困っている人もいると思います。現実には起こらないだろうことに過剰に恐怖を感じてしまうと、日常生活に支障が出る場合もあると思います。過剰な恐怖や不安を感じやすい人は霊感商法などの被害には注意してください。発達的特徴からの空想や妄想は普通の範囲の延長にあると思います。それに対し統合失調症の場合の妄想は内容が少し異なると考えています。この場合は早めに治療を開始した方がいいと考えます。発達的特徴からの妄想なのか、統合失調症からの妄想なのか、これを区別することは今後の精神医療に求められる事柄になっていくと思っています。
(2015.5.2 公開 2015.7.12 更新)
Copyright Kazuhito Maruyama All Rights Reserved.