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発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群

呼んでみませんか?

突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 心の健康(解説③)】

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㉑〜㉔までの解説です。




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㉑ 美しい風景や音楽などに感動できる、嬉しいことを素直に喜べる

(正常と思われる範囲)

美しい自然の風景を眺めて感動したり、音楽や芸術を鑑賞して感動したり、文学等も含め、心に響く何かに感動出来ることは健康だと思います。感動は決して特別なものではありません。身近な日常生活にも存在します。日々の生活の中でたとえ小さなことでも嬉しいと思えることがあって感動したり、それを素直に喜べることもまた健康なことだと思います。人は「感動する為に生きている」と言われるくらい、生きることと感動は切り離せない事柄だと思いますが、心が健康でなければ感動は出来ないと思います。中には感性の素晴らしさを職業や趣味に活かしている人もいると思います。実学中心な世の中に変化しつつあるかもしれませんが、感動とは身近にもある一方で、人の情動活動として特別なものとも考えます。ある意味で「人の最も人たる面」であると思っています。だからこそ決して無くしてはならない分野だとも思っています。

(日常社会生活に支障があると考えられる場合)

感動とは人の情動活動の中でも特に人間性の強いものだと思います。それ故、心の健康の指標としては様々な状態を反映すると思います(注意点としては、誰しも身体の疲労が激しい時や妊娠中は心の感受性が高くなっているかもしれません。その点は考慮して読んでみて下さい)。例えば、以前なら楽しいと思えて感動できたことに関心が無くなっている場合、かなり心労が溜まっているかもしれません。気持ちの落ち込みもあれば、もしかしたらうつ的な状態にあるかもしれません。うつ状態には治療が必要になります。他には、感情が高ぶりやすかったり、いつもよりも涙もろい状態が続く場合もあるかもしれません。そういった場合には、一度受診を考えてみて欲しいと思います。他には、常に音や味や臭いに敏感であったり、常に感動しやすく、昔から喜怒哀楽が自分でも強すぎると思う人がいるかもしれません。発達的特徴からの感受性が強い場合もあると思います。その事が日常生活でトータルでみればプラスになっているなら必ずしも治療の必要はないでしょう。しかし、マイナス面が多くて辛さや心労が日常的にあるならば、発達的特徴に関する治療によってその辛さが減るかもしれません。通常の感動が出来ることは一つの健康の指標です。感動が弱い場合と感動が強い場合、いずれも気分障害(感情障害)や発達的特徴、愛着の問題、過剰な心的な抑圧、等の観点から、日常生活に何らかの辛さがないか見直してみて下さい。ちなみに、より子供の方が物事に感動すると思います。子供時代の感動の状態を大人になっても持っている場合、そのことによる日常的な辛さがあれば、一度発達的特徴の面から自分を見直してみる事は有用だと思っています。感動が過剰な場合(良い事にも悪い事にも)、その過剰な感動の感覚を引きずってしまい、仕事になっても気持ちが切り替えられない場合もあると思います。この事で悩みを持っている人は意外に多くいるのだと思っています。


㉒ 物事を共感できる家族、友人、パートナーがいる

(正常と思われる範囲)

感動や価値観を共有できる親しい人がいることは幸せなことです。家族と旅行を楽しんだり、友人と時々会ってお互いのことを語り合ったり、喧嘩しながらも関係を保てるパートナーがいることなど、健康な証だと思います。何も言わなくても自分のことを分かってくれたり心配してくれる存在がある人も健康であり幸せだと思います。人生で本当に大切にすべきは何よりも家族や友人や仲間なのかもしれません。「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」は論語の一節です。交友は人の心を豊かにすると思います。

(日常社会生活に支障があると考えられる場合)

心を開いて話が出来る相手がいないと感じている人もいると思います。一人でも適切に物事が相談できる人がいると大きく違うのですが、なかなかそういう人を持てない人も実は多いと思います。本当は人や社会を信頼したい気持ちがあっても、それが出来ないことに悩みのある人もいると思われます。相談が出来るところを持っていても、そこに社会的には不適切と思われる金銭の動きが伴うならば、関係としては不健全だと思われます。人は決して孤独が好きな訳ではないと思います。難しいことですが、少しずつでも自分の周囲とコミュニケーションを取って、自分の気持ちを表現出来るようにしていく事は、心の健康につながる事だと思います。そしてその心の健康は、自分の生きる上での幸せにつながるものなのだと思っています。社会もさらに優しさを持ち、コミュニケーションを求めている人が適切に交流できる雰囲気を醸成していくことも必要だと思っています。初めの一歩に悩んでいる人は、社会の想像以上に多いと思っています。



㉓ 自分の時間を持つことができて、社会的に適切な趣味や余暇活動ができる

(正常と思われる範囲)

仕事が忙しい人や小さな子供を育てている時など、なかなか自分だけの時間を作ることが難しい場合もあります。それでも人は多少なりとも自分だけの時間を持っていると思います。静かに自分を振り返ってみたり、心を休めたり、一人の時間を持つことは心の健康のために必要なことだと思います。また、趣味があることは良いことと思います。余暇に楽しみがあることは心の健康の一つの指標だと思います。子供が遊ぶように、遊ぶということは心の安定を保つ行動なのだと思います。遊びは心の余裕やリラックスを生みます。また、遊びの一面に「集中する」という特徴があり、大人の場合では「雑念を払う」ことにも通じるのだと思います。遊びや何かに没頭することで、むしろ心がすっきりすることもあるでしょう。それが心の安定や気力の充実につながるのだと思います。

(日常社会生活に支障があると考えられる場合)

休みの日にはひたすら寝て休んでいる人もいると思います。仕事が忙しくての過労もあるかもしれません。身体を休めることは必要です。しかし、そういう状態が長らく続いているならば、心の健康の面からは必ずしも良い状態とは言えないかもしれません。余暇にゆっくり過ごす時間を持てたり、楽しいと思えることがあることは、やはり健康かどうかの指標になると思われます。趣味は無理して作るものではありませんが、無趣味であるならば、その理由は一回考えてみてもいいと思います。発達的特徴から、それほど忙しくないはずなのに気持ちがいつも一杯で余裕がない人もいるかもしれません。場合によっては、仕事以外の何らかの物事に多くの時間を費やしてしまい、いつも気持ちが一杯で忙しいと感じている人もいるかもしれません。その結果、自分の心に余裕が無くなってしまっているならば、自分の人生の時間の使い方を、時に振り返って考えてみることも必要かもしれません。心に余裕がない状態が続く事は健康な状態とは言えないと思います。むしろ不幸な事なのかもしれません。心身ともに健康で幸せな時間を増やすために日々改善出来ることがあると感じるならば、少しずつでも自分の日常の行動を変えていくことは自分の人生のプラスになると思います。



㉔ 人や社会や自分をおおむね肯定的に思え、平凡な日常生活に耐えることができる

(正常と思われる範囲)

社会や他人や自分をおおむね認められ、多少の不満はあるものの、日々の社会生活を送ることが出来ていれば健康だと思います。日常とは本質的に平凡であると思います。だからこそ日々に変化を持たせるために旅行や登山に出かけたり、楽しい刺激を求めて遊園地に行ったりするのでしょう。何か楽しいことは無いかなあ、と思いながら、あまり変化のない日々を過ごせることは健康である証だと思います(平凡な日々に耐えられない人は、社会の想像より多くいるのかもしれません)。

(日常社会生活に支障があると考えられる場合)

本当は感じたくなくても、社会や他人に不信感を強く感じてしまう人がいると思います。その場合、日常生活に閉塞感があったり、楽しい事も素直に楽しめない生活になってしまっているかもしれません。日常生活に何らかの辛さが生じ易いと思われます。少々飛躍した感じがあるかもしれませんが、そういった場合、多かれ少なかれ何らかの依存症にいたっている場合は実は多いと思われます。本当は社会や人を信じたくても、裏切られたり騙されたり、何度も生き辛い場面に遭遇し、結果、社会的に不適切な事や場所で安心を得てしまうという結果に至っている場合は多い様に思われます。何かに依存している場合、本人は生きる上での何らかの辛さを持っていると思います。そういった視点で周囲が接する事でその人が陥っている依存が解消されることもあると思います。そういった理解や優しさを社会が持てれば、より生きやすい社会になると思っています。




日常生活に支障がある場合

何とか改善したいと思って自分なりに頑張ってもなかなか解決できなかったり、すでに心療内科や精神科を受診している人もいると思います。発達的特徴からの日常的な辛さをもっている場合も多いと推測しますが、その場合、従来の精神科の考えからは「個性」の範囲とか「治療対象ではない」と言われてしまっているかもしれません。しかし、実際には、発達的特徴を考えた診断や治療によって日常の辛さが減る場合は多いと思っています。私は発達的特徴は人が多かれ少なかれ普遍に持ちうるものだと思っています。また心の健康の基準24か条が満点の人はまずいないと思います。そういった点からも実は日常的に何らかの悩みや問題点を持っていることの方が普通のことなのかもしれません。言うなれば、人は多かれ少なかれ「心の持病」を持っていると捉えることも出来るのかもしれません。身体に関しても100%健康な人ばかりではありません。何らかの持病がある人も多いと思います。心もそれと同じ、と考えてもいいのではないでしょうか? 特に、発達的特徴からの「どうしてもそうしないと落ち着かない」という状態(衝動)は、何かのきっかけでそうなり、何かによって解消し得るものであり、永続する精神病状態とは異なるものです。程度の差こそあれ人が持ち得る特性や特徴でもあると思います。私が発達障害を「神経症」ではないか、と思う理由はそこにあります。発達的特徴からの悩みであるならば、治療により大きく症状が楽になることは多いと考えます。少し勇気を持って初めの一歩を踏み出せることで、その後の人生が大きく変わることはあるのだと思っています。



※「心の健康の基準24か条」は、日頃から考えていた人の心の健全性や、それに関連する発達的特徴も含め、より人が日常を安心して過ごせる指標があれば、と思ってまとめてみました。また24か条を作るにあたり、改めて「心の健康」といった観点で心や精神の健康についてまとめたものがないか手持ちの資料などを見返してみました。実際には数は少なく改めて自分で驚いたりもしましたが、その中でも「精神健康の基準」を一番参考にしました。これは精神科医の中井久夫氏のまとめたものです。中井氏は風景構成法でも知られています。「精神健康の基準」もお読み頂ければ、人の心や精神の健全性についてより理解が深まると思います。



(2015.5.7 公開 2015.7.12 更新)

発達的特徴は誰しも持っていると思います。「心の持病」と書きましたが、そういった概念は従来は無かったと思います。しかし「心の持病」がたとえあったとしても、それを把握して場面に合わせて対処すればいいものかもしれません。


昔から「無くて七癖あって四十八癖」とも言われています。最近はこの言葉をあまり聞かなくなりましたが、これには「神経症」として捉えた時の「発達的特徴」も含まれているのかもしれないと思う事もあります。先人の人間洞察の深さに感銘を受ける事は多々あります。そういう時、いつも「温故知新」を思い出します。


「精神健康の基準」の中井氏は精神病理を深めた人でもあります。一方で最近の医学は、原因を科学的に説明できるものに求め過ぎている傾向があるように思います。しかし、精神科の分野では、心を持つ人としての情動活動の面と、生物学的原因の観点からのアプローチと、その両方のバランスが必要なのだと常々思っています。



「衝動」「認識」に関して、人は多かれ少なかれ弱点を持っているのだと思います。心の健康の基準を作りながらも改めて感じました。私は、いわゆる発達障害は、


① 「衝動」に関する神経症状群

  (多動衝動、潔癖強迫、不安緊張、執着不安など)

② 「認識」に関する神経症状群

  (注意力、判断力、思考処理力、集中力、LDなど)


の二つに将来的には大きくグループ分けが出来るのではないかと思っています。


①はADHDに類似し、②はASに類似しています。しかし現在(従来)の診断分類や理解では、当事者の感覚や社会生活における現実に合致していない「ズレ」が多くあるように思います。それが発達障害の理解が進まない理由の一つなのかもしれません。(2015.7.12 追記 新しいグループ分けで4つに提案し直しました)

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