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突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 ある日曜の午後の魚とり 】

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ある日曜日の午後、子どもを連れて近くの川に遊びに行きました。


人気の場所なので、いつも休みになれば親子連れが多くやってきます。この日も、午後も遅くになっていましたが、親子連れ(?)が一組、バケツを持って川で何かを探している姿が見えました。


車を停めて、河原へ降りて、私も靴を脱いで川に入って遊び始めました。上の子どもたちは、もう自分たちで遊び回っていました。私は下の子を抱っこして川を渡して、浅瀬で遊び始めました。


そこへ、先程の親子に見えた一組が、川を遡りながらやってきました。声をかけて話を聞いてみたら、おばあちゃんと男の子のお孫さんでした。おばあちゃんがバケツを持って、小学校二年生と言っていた男の子は、水切りざるを持っていました。


「何を取っているんですか?」

私は、川虫でも取っているのかな、と思って聞いてみました。

「うちの孫が、どうしても魚を捕りたいって言って連れてきたんだけど、全然捕れなくて」


川は水がきれいで流れもある渓流で、魚がいるとすれば、この辺はイワナかヤマメがいる上流でした。魚の素早さや、ざるだけという道具立てからは、簡単には捕れないなあ、と思って聞いていました。聞いているうちに、もう男の子は上流へ進んで魚を探していました。


私は、

「なかなか魚は捕れないと思いますよ」

と言いながら、男の子のいる方へ行き、声をかけました。


「魚が捕れるか分からないけど、小魚なら岸についているはずだから、ちょっとざるを貸してごらん」

と言って男の子からざるを受け取り、魚がいそうな岸際のところにざるを入れ、

「上流から魚を追い込んでごらん」

と言って男の子に促しました。


内心は、魚は捕れないだろうなあ、と思いながらも、捕れたら面白いな、と自分も少し童心に返っていました。

すると、ざるを上げたら、なんと、ヤマメの子が一匹、ぴちぴちと跳ねながら入っていたのです。


「あっ、魚だ!」

男の子は夢中で魚を掴みました。急いで下流のおばあちゃんのところへ一緒に行き、バケツに魚を放しました。それを見ておばあちゃんも喜んでくれました。




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その後、男の子としばらく魚とりを続けましたが、初めの一匹だけの幸運みたいでした。私はざるを男の子に返し、自分の子どもの方へ戻りました。


自分たちもしばらく川遊びをしていましたが、男の子は魚を探し続けていた様子でした。ちょっとしたコツを示してあげたら、楽しくなったのかもしれません。


大人にとっては、ある休日の一コマかもしれません。

しかし、男の子にとっては、大きくなってからも忘れられない出来事として心に残るのかもしれません。自分に出来なかった事を、知らない大人が手伝ってくれて、それが出来て嬉しかった事。


大人にとって小さなことでも、子どもにとって大きな事は沢山あると思います。子どもの感受性は、大人が感動できないことでも感動できるくらいに大きな可能性を秘めていると思います。それを伸ばしてあげたり、生きる気持ちや生きるすべを教えたり、それらは大人の役目なのだと思います。


大人が子どもに対して出来る事や、社会に対して出来る事は、日常の中に沢山あるのだと思います。ブログを書きながら、私はいつも考えています。自分に何が出来るのか、を。


ある日曜の午後の魚とり。

もしかして、この男の子が、将来、私と同じ事をしてくれたら、私は嬉しいと思います。これは、一つの「未来への夢」と言っていい事なのかもしれないと思いました。そして、そういう「夢」が沢山あるならば、それは幸せなことなのではないでしょうか。


普段の日常の中で、機会があれば自分が出来る何かをする。

ようやくこの歳になり、それが少し分かった気がしました。



(2015.5.15 公開 2015.7.12 更新)

ある大手の家具小売り企業の企業理念を知った時、少し嬉しくなってその記事を何度か読み返しました。


私たちは人の持つ力を信じます

(We believe in people)

すべての人に何かの才能がある

(Everyone is seen as a talent)


その記事にも書いてありましたが、一見、美しすぎるように見える理念のもと、実際その企業は成長しています。だからこそ記事にもなった訳です。


人を信じる事は、その先に、社会を信じること、人と社会の未来を信じることにもつながると思います。日本人は、社会的な様々なものはなんとなく自然に与えられる、といった考えを知らないうちに持っていると思います(水戸黄門が好きな人が多いように、お上がなんとかしてくれる的思考)。


しかし、社会や人の未来を作って行くのは、今の自分たちのはずです。その未来を信じられる土台は、今人を信じること、そして、今自分が出来る何かをすることではないでしょうか。人を信じることや自分が出来る何かをすることは、いわば人や社会のより良い未来のための「無償の行動」なのかもしれません。「ある日曜の午後の魚とり」も一つの無償の行動でもあります。


こういった考えは、今はきれいごとかもしれません。しかし、未来において、それらが「コモンセンス」になっているかもしれません。コモンセンスとは単なる常識ではありません。あえて一言で言えば「社会と人が共通して持つ良識」だと思います。


つい、数百年前のことです。世界の多くの国や地域で、人の社会は身分社会だったはずです。しかし、今は人は平等であり、基本的人権を尊重するという考えがコモンセンスになっていると思います。人は人の未来を変える事が出来るはずです。


人を信じること。そして、すべての人に何かの才能があると考えること。こういった考えがコモンセンスになり、人や社会の多様性を受容し、人や社会を信じ、その未来に希望を持つことが当たり前の世界。如何ですか? きれいごとかもしれません。しかし「きれい」と感じる心に、私は可能性があると感じます。


ついでに一つ。


「読むべき本」という言葉はよく聞かれるフレーズです。しかし「読むべきサイト」という発想は聞いたことがないように思います。


思うに、今の社会に浸透しすぎている商業主義が一因かと推測します。少なくともネットは広告で運営されている側面が強くなっています。


お金にならない「無償の行動」や「無償の想い」、そういったものが昔はもっとあったように思います。そして、それに気が付いたならば、未来の社会のために、少しずつでも変えて行く事は出来るのだと思っています。

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