更新情報

発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群

呼んでみませんか?

突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 障害より傾向と考えては 】

Blog

個人的な考えですが、私は発達障害を「発達障害です」と明確に診断する必要はないのでは?と思っています。これには異論が沢山あると思いますが、少し考えを述べてみたいと思います。


例えば、子どもで発達障害と診断するメリットは何でしょうか?


診断がなければ支援を受けにくい。確かにそうかもしれません。国の支援政策や教育現場では、通常は診断があって支援が始まります。しかし、診断とは通常の医学では確定、固定したものに対し行なわれることが多いと思います。癌の診断ならば、癌細胞が身体の何処にあるか、どんな種類の細胞か、転移があるか等を見定めた上で、○○癌でステージ○、と診断します。そして治療法を選択します。


発達障害は、診断してそれで確定や固定するものなのか。障害は一生変わらないのか?


昔は大人には発達障害がないとさえ言われていました。より発達障害について理解が深まるにつれて、大人になる過程で症状が落ち着くケースも多くみられています。しかし、忘れっぽい「傾向」や、衝動的な「傾向」は大人になっても残る場合もあるでしょう。ただ、障害とは言えないレベルに落ち着けば治療からは離れることも可能です。


大人になるにつれて軽減したり障害から外れる可能性がある「状態」に対し、「診断」として確定する行為に、本来は違和感を感じてもいいのだと思っています(その点で「うつ病」も同じだと思っています)。発達障害の障害は英語では disorder ですが、disorder(障害) 以前の状態として tendency(傾向) で捉える考えがあってもいいのだと思います。傾向ならば、改善すれば生活上の障害ではなくなる可能性を含むことができると思います。


私は、例えば注意欠如多動症(ADHD)ならば、ADHDの傾向がある、と捉え、診断に重点を置くよりも、現在の生活のなかで支障があるのかどうか。あるならばどういった医療支援が必要か。カウンセリングなのか環境調節なのか。また処方薬を使うべきか。そういったことを考えることに、より時間をかけています。


自閉スペクトラム症(ASD)でも同じです。あくまでASDの傾向があると捉え、どのように理解や対応をしていけば、本人と周囲のためになるのかを考えています。


もちろん私も診断しています。しかし、それをいつ、どのように患者さんに伝えていくか、そのことにいつも心を砕いています。そうせざるを得ないのが、今の社会における発達障害への見方だと思います。子どもが発達障害と診断されたことによりショックを受ける親御さんが沢山いるなか、伝えていく方法にも心を配るべきと思います。大人の場合は伝える相手は本人です。どうやって伝えるのがいいのか、いつも悩みつつ診療をしています。


診断をするメリットもあり得ます。自分の状態に対して長年の悩みを持っていた患者さんが、診断を受けることで自分の悩みの理由が努力不足からではないと分かることは、本人の苦しみを軽減できる場合があると思います(診断を激しく拒む人もいますが)。そのため、診断を受けただけで大きく症状が軽減する人もいます。それでも時間が少し経過してから、やはり診断に対して悩みが生じる場合もあると思われます。周囲にオープン(自分の診断を伝えること)にするか、クローズのままでいくか、職場が理解してくれるか、、、、


それがもし「診断」でなく「傾向」ならば、自分の状態を受容する時やその後の経過で、明確に診断を伝えられるより、そのことによるストレスは軽減されるのではないでしょうか? これは私の感覚なので、もしかしたら世間の多くの人の考えとは違う可能性はあると思いますが、やはり私は診断されるよりも、傾向があると指摘されるほうが、より受け止めやすいと思っています。傾向という捉え方で、治療する側と治療を受ける側の両方の「クッション」が出来ればより良いのでは、と思っています。更には社会にもクッションが出来ればいいと思っています。


より感受性豊かで傷付きやすい特性を持つのが発達障害の人々であるならば、よりその点にも配慮をしていくべきと思います。少し専門的に言えば、定型の人から考えた普通の行動が、非定型の人の心を傷付けていることは、多くの場面であるのだと思います。診断をする、それもその一つなのだと思っています(ちなみに小学生くらいの時に普通の「しつけ」と称して叱られたり、嫌な課題を取る組むように強いられると、特にASD傾向のある人は辛さが助長され、それが成人期にも残る可能性があり得ます。そういったことはなかなか理解されないことなのだと思います)。



今の社会では、発達障害と診断された瞬間に、その人は普通の人から「特別な人」になってしまいます。しかし、誰でも持ちうる「傾向」を少し強く持っていて、それは軽減される可能性がある、そう捉えることが出来れば、社会の発達障害への視点は変わる可能性があるのだと思っています。


皆さんは如何に思いますか?



(2015.8.1 公開 2016.2.3 更新)

発達障害は、明確に診断を伝えた方がいいという考えもあります。自分の状態に医学的な原因があると分かることはメリットが大きいという考えや、自分の状態に直面しなければ自分を大きく変えていくことはできない、そういった理由からだと思います。


私も、明確に診断を伝えながら治療をしていくこともあります。しかし、それもケースバイケースだと思います。発達障害の診断の可能性を感じただけで医療を拒んでしまい、治療につながらなくなってしまった場合もあります。また、自分が発達障害的な問題を持っていると予感している人でも、それにストレートに直面することが怖くて医療機関などに相談できないでいる場合も、潜在的に多くあるのだと思います。


現在の発達障害の治療場面では、明確に診断をした上でも、それでも治療につながっている人、そういう人だけを治療対象にしている構造傾向があるかもしれません。となれば、本来ならば支援が必要な人に医療サポートが届きにくい構造になっているのかもしれません。


発達障害に関しては、予想より多くの人が、世代を問わずに悩んでいる可能性があると考えられます。ならば、診断することにはメリットがある、という考え方も、一度見直してみてもいいのだと思っています。


より早期に見つけて、伸びやかに成長し、トラウマもなく成人に至れることは、大きな目標の一つです。しかし、早期に見つけようとすれば、本来なら何も治療しなくても普通に成人できる人も「診断」を受けているケースもあるかもしれません。これは、発達診療での大きな医学的悩みなのだと思います。


発達障害の治療は、やはり難しく、分からないことが沢山あるのだと日々痛感しています。

Blog