発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群と
呼んでみませんか?
突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
日常生活の中で、誰かに手を振る場面があると思います。赤ちゃんや子どもにバイバイをしたり、おーいと声をかけながら友人に手を振ったり。
私は病院の中で小さなお子さんを見かけたとき、目が合ったら笑顔を作って軽く手を振っています。私自身、中年のおじさんでもあり、いわば「いい歳したおっさん」なのですが、年の功からか、そういったことが割とできるようになりました。
以前の自分はとてもシャイで堅かったので、昔の自分からすれば知らない子どもに手を振るなんて想像できません。小児科をしていた頃は知っているお子さんには手を振ったりしていましたが、今では全く知らない子どもにも手を振ってます。自分に同年代の子どもがいることも影響していますが、ふと目が合ったら笑顔で手を振るようにしています。はじめは自分も恥ずかしかったのですが、やっているうちに普通にできるようになり、いつのまにか自分にとって当たり前になってしまいました。
子どもの反応は可愛いものです。恥ずかしがってお母さんにしがみつく子もいます。もじもじ固まってしまう子もいます。手を振った私にちょこっと手を振ってくれる子もいます。珍しい反応としては、白衣を着ている体の大きなおじさんが手を振ったのが怖かったのか、手を振ったら両手を合わせられたこともあります。ただ、どんなお子さんもキラキラした目で私を見つめてくれます。
手を振ると、心地よく、心が晴れやかになる感じがします。子どもさんにだけでなく、友人に出会ったときに手を振ったり、別れるときにバイバイと手を振ったり、今までよりもやるようにしてみたら、なんとなく心地いいものだと気がつきました。何故かは分かりません。手を振ってもらった時も嬉しく感じます。みなさんはどうですか?
子どもさんへ手を振ってみることは、いつの間にか始めていて、今では習慣になってしまったことですが、あるとき、ふと思いました。少しでも大人が子どものことを考えているんだよ、というメッセージにもなっているのかな、と。知っている人以外と関わりの少なくなった現代、少しでも子どもの記憶にプラスになるのかな、と。
多くの人も心の中で、たとえ自分の子どもでなくても、小さな子ども達には健やかに育って欲しいと願っていると思います。子どもを育てるのは、親だけでなく社会でもあると思います。手を振ることは小さなことですが、私はおそらく続けていくと思います。なんとなくですが、続けることでいいことがあるように思っています。
(2015.12.24 公開)
子どもの頃「できるかな」という番組を夢中で見ていました。「のっぽさん」と「ゴン太くん」のやりとりが楽しくて、毎回ワクワクしながら見ていました。
その「のっぽさん」は、子どものことを「小さい人」と呼ぶそうです。最近も新聞でのっぽさんがそのお話をされていました。子どもは大人が思うよりとっても賢いと。
私もそう思っています。子どもは、大人が思うよりも高い能力を持っていると思います。予想以上に高度な思考もしていると思います。たしかに社会経験は少ないものの「小さい人」なりに一生懸命考えて自分の周りの世界を見て理解しようとしているのだと思います。親や大人の言葉や会話を聴いたり、大人が何か行動している時はそれをじっと見て観察もしています。
小さな子どもさんの発達障害を診る場面で「集団に入れない」とか「席に座っていられない」とか、時には「癇癪を起こす」など客観的指標で診断がなされることが現在の主流です。しかし、なぜ集団に入れないのか「小さい人」に聴いてみることの方が私は大切ではないかと思っています。席に座っていられない、ということは、大人の視点です。「小さい人」にとっては座っていること以上にしたいことがあるのかもしれません。「小さい人」が何に興味を持って行動しているのか、そういった視点で話をしてみることも必要だと思います。癇癪を起こすのにも「小さい人」なりの理由が必ずあると思います。ただ、それが集団場面で起こると、無理にでも静かにさせようと大人はするかもしれません。時に大人に叱られたりするかもしれません。しかし、理由があってしたことを、その理由も聞かずに叱られることは「小さい人」にとっては不本意に感じることなのだと思います。
私は発達障害については大人の発達障害の患者さんを主に診療していますが、子どもの頃から治療を受けている人で大人になって精神科にやってきた人が「子どもの頃に飲まされていた薬が嫌で嫌で仕方なかった」という患者さんがいます。飲むと体が重だるくなって嫌だったけど、飲まないと怒られるから飲んでいたと言います。
薬が本当に必要であるならば、その理由を「小さい人」であっても納得して分かるように何度でも説明していくことも大切なのだと思います。しかし、集団生活に「適応させる目的」で処方が使われる場面は少なくありません。それは本人のためではなく「周囲のため」になってしまっています。「小さい人」である本人と、大人の視点に偏らずに話をしていくことで、もしかしたら薬が要らない場合も出てくるかもしれません。本人との話を重ねることが、一番の薬になる場合もあるのだと思っています。大人にとって都合のいい状態を作ることを目的とするのでなく、「小さい人」が心身ともに健やかに、伸び伸びと成長できることが大切なことなのだと思います。
「小さい人」との対話は非常に重要なのだと思います。そして、それは大人の患者さんでも同じなのだと思います。精神科のみならず医療全体の課題になっている気もします。少なくとも精神科分野に限って言えば、主に客観的指標で判断をする今の診断基準(DSM-5のADHDやASDの診断基準)は、人の心に届いていない様に思っています。
少しでも、医療が患者さんの心に寄り添ったものになっていくよう、いつも願っています。
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