発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群と
呼んでみませんか?
突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
自分がこのサイトを続けている一つの想いとして、すべての人の「心の人権」が守られる、そんな社会になって欲しいという願いを持っています。
このサイトを始めた頃は漠然としたイメージでした。人の心の辛さが理解され、そして人の心の辛さが減って、この社会により「笑顔」が増えたらいいな、と思い、サイトのドメインを取得する時も、悩んだ末に「smile」を入れました。
大人の精神科をする中で、実際には大人の発達障害の状態と言える人々が多いことに気がつき、一部の人だけにみられる先天的な脳機能異常とする考え方にも違和感を持ちました。そして、その違和感を今も持っています。
私は、いわゆる大人の発達障害には、正確に言えば「発達障害」と、発達障害と似た症状を示す「愛着障害」、虐待などから生じる「二次的な発達障害」、そしてそれらに複雑に絡んだ、過去や現在で生じ得る「トラウマ」や「PTSD症状」が含まれていると考えています。
最近、思うことは、発達障害というものが一部の人の問題ではないことに、世の中の人々も専門家の人々も気が付き始めているように感じています。より深く本質を感じている人ほど、現在言われている発達障害というものは誰にでも生じ得る状態や人が本来持っている要素ではないかと心の中で思い始め、発達障害に対する見方や表現を変化させている気がします。この点は、私はより望ましい理解の方向へ少しずつ社会が動いているように感じています。
また、いじめの問題や、子どもの虐待や、企業でのパワハラ問題など、人の心が傷つく状態は良くないことなのだとの認識が社会の共通理解にもなってきています。これもより望ましい方向なのだと思います。
人は生まれた時から「心」を持っています。生まれた瞬間から人は五感で世界を感じ、そして考えています。だとすれば、赤ちゃんにだって「心の人権」があるはずです。幼い子であっても「心の人権」を持っているのだと思います。小学生だって「心の人権」を持っているはずです。中学生も高校生も、そして大人も同じです。
「心」が傷つく時、そこには何らかの「力の差」があるのだと思います。子どもの虐待やネグレクトでは、絶対的な力をもった親がいます。いじめでは体格差や人数の差があるかもしれません。学校での体罰などでは生徒と先生とには力の差があります。大人になってからも職場などでもいじめはあります。家庭内暴力(DV)でも力の差がみられます。なんらかの力の差がある時、力を持った側にモラルがなければ、弱い立場の人の心が傷ついてしまう状況が生まれます。また傷つきやすいよりナイーブな心は、傍若無人な無配慮などによっても傷つけられてしまいます。
ちなみに、いわゆるパワハラなどを含めたハラスメント全般に言えることですが、通常、ハラスメントでは「力に上下関係」があります。つまり力の差です。立場の上下、人種で言えば多数か少数か。「相互の力の差」はハラスメントを定義するときの一つの要素とも言えるのだと思います。会社などでのパワハラでは、通常は部下が上司からパワハラを受けます。人の上の立場になる側に道徳心、自制心、理解力、モラル、器量が欠けていると、よりパワハラが生じやすいのだと思います。
おおよそ全てのハラスメントは同じ構図だと思います。そして、虐待やハラスメントは、単に個々の事象だけの問題ではなく、社会構造の変化などの影響を多く受けています。だからこそ、単に虐待と捉えるのでなく「社会的虐待」と捉えるべきではないかと思っています。
また「心の弱味」が狙われることもあります。
エステや美容関係で多額の借金を背負わされてしまうケースが多いことは知られています。女性の綺麗になりたい気持ちにつけ込んだ悪徳な商法でもあります。これも綺麗になりたいという「心の弱味」につけ込むという点が特徴だと思います。騙され欺かれたことが分かった時、心は傷つきます。
自己啓発セミナーなども、変わりたいという「心の弱味」につけ込んだ商法です。適正な料金であるならばまだいいのですが、法外な金額を払わされている場合もあると思います。マインドコントロールを受けて、自らも人を騙す側に引き込まれてしまうかもしれません。「癌に効く」という食品などを、癌で苦しんでいる人に対して高額で売ることも、「心の弱味」に付け込んだ商法だと思います。
またよくみられることとして「神聖」という言葉を語り、不安になっている心に対し「罪が深いからお祓いが必要」などと言いお祓い料を求めたり、浄財として多額のお布施を求めることがあると思います。むしろ、すがる思いでやってくる人々に対する行為としては、そういった行為こそがより「罪深い」ことなのではないかと思います。「弱味」を持った心に「神聖」という言葉や力を持ち出しお金を要求するならば、信仰を隠れ蓑に使った商売にすぎない気がします。不安や恐怖をより煽るのならば、それは心の人権を侵害する行為なのだと思います。
親が疑似信仰依存の家庭では子どもに「思想の抑圧」が生じ得ます。子どもは、親の言っていることと社会一般との考えのズレを感じながら、健気にも、多くの子どもが親に合わせてしまいます。これは心や思想の自由を奪うことであり「思想虐待」と言える事柄なのだと思っています。疑似信仰家庭の二世の人々の精神不調は決して少なくありません。思春期の問題がより大きくなったり、成人期以降にも続く心の不調など、社会の裏に隠された事実のような気がします。
疑似信仰でなくても、子どもの心を虐待してしまう場合があります。親の考えが強かったり、社会的にきちんとしすぎている家庭の子どもが、いわゆる「ぐれて」しまう場合があることは、多くの人の想像に難くありません。その理由は「子どもの心の自由さを奪ってしまっている」からだと思います。
きちんとしている親も、子どもの頃はいたずらもしたでしょうし、子どもらしい嘘もついたと思います。大人のきちんとを子どもに強いることは、子どもにとっては辛いことです。子どものすることを認めつつ、子どもの心を聴いてみることが大切だと思います。対外的に謝ることがあればそれは謝り、対内的には、悪いことでもそれをありのままに受容してあげることで子どもは守られている感じがすると思います。子どもは守られている気持ちを求めています。その守られている「基地」を感じてこそ、子どもの心が育っていきます。親は自分の体面を守るのでなく、親は子どもの「心」を守り育むことが一番の仕事なのだと思います。
子どもは生まれながらに奔放であり、可愛くもあり、意地悪でもあり、いい子であり、わがままであり、友達想いであり、自己中心的であり、他罰的でもあり、嘘もついたり誇張もしたり、しかし大人より生き物への慈しみの心を示すこともあります。そういう様々な過程を経て、多くのことを学んで成長します。初めからそれらを否定した環境では、やはり人の心は健全に育たないのだと感じます。泥だらけになって遊んだり、生き物を拾ってきて部屋で隠して育てていたり、子どもながらの健気な嘘や自己主張があったり、それらを親や社会が認めてあげることが必要なのだと思います。初めからそれらを否定してしまうならば、一見いい子に育っているように見えても、健全な心は育たないように思います。親や社会が「子どもの清濁を併せ呑む」ことで、子どもは自分の枠を広げながら、社会を学んでいくのだと思います。そういった意味で、あくまで私の感じる印象として、今の子どもの育つ環境はきれいすぎて安全すぎる割に窮屈であるとも感じています。
他には、親にアルコール依存症やギャンブル依存症があり、家庭が「機能不全家族」になってしまっている場合にも、子どもの心は抑圧され萎縮してしまいます。これも心の人権の侵害であり社会的虐待なのだと思います。先に述べた疑似信仰に対し親が依存しそのための機能不全家族になっている場合も同様です。
子どもは敏感です。親が自立せず何かに依存している姿をみて異常を感じるのだと思います(依存症は病気です)。素直に愛着を形成したくてもできずに苦しみ、その表現として不登校に至ったり、食行動の異常を呈したり、時に自傷行為などに至ってしまいます。これらは気持ちのやり場が他になく、苦しんだ末の結果です。
すべての人の心が、怖れず欺かれず虐げられず萎縮せず、自立し伸びやかに健やかに幸せであることを望みます。本来「すべての人が心の幸せを追求する権利を持っている」と思います。それが「心の人権」なのだと思います。そして、それが守られる社会になって欲しいと思っています。
まだこのサイトを続けていきたいと思っています。子どもも大人も含めて、すべての人の「心の人権」がより守られることを望みます。そして「心の人権」という考えが当たり前の社会理解になる日がいつか来ると信じています。そのためにも、自分のできる事を一つ一つしていきたいと思っています。
(2016.1.28 公開)
「心の人権」が侵害されるとトラウマが生じます。トラウマは心の傷(心的外傷)ですが、それが癒えないとPTSD(心的外傷後ストレス障害)が生じます。いわば「永続した心の人権侵害」の状態なのだと思います。
昔、とある未開社会がブラジルの奥地で見つかった時、その調査報告をみて、今でも記憶していることがあります。その未開社会は今まで文明社会とまったく接点を持たず、一つの部族だけで保たれていた社会でした。他部族との争いはなく、食べ物はすべての人に公平に分けられる社会だったそうです。貧富の差はなく、すべて皆で助け合って生きる社会。殺人も盗みもないのだそうです。その社会で最大の罪は何か? 研究者はそこに興味をもったそうです。
その答えは「人の心を傷つけること」だったそうです。
その部族は、ある意味で閉じられた社会とも言えます。彼らにとっては部族のすべての人と知り合いの社会です。みんなが知り合いの社会。そこでの最大の罪が「人の心を傷つけること」。これを知ったのはもう三十年くらい前の話です。しかし、いまでも私の記憶に残っています。
実は、自分の中でこの話はまだ消化できていません。だからこそ、よく覚えているとも言えます。なぜこの部族で「人の心を傷つけること」が最大の罪なのか。
皆が知り合いの社会なら、お互いの心を傷つけることは減るように思うのですが、しかし、決してそうではないことも社会にはあると思います。適度な他人関係の方が礼節が保たれる場合もあるでしょう。それに閉ざされた知り合いの社会で、心を傷つけてしまうことがあるからそれが罪となるわけであり、「そういったことがある」ことを示してもいるのだと思います。
このことは「心の人権」とともにこれからも考え続けていこうと思っています。
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