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Blog【 硫黄島の日米合同追悼式典 】

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今年の3月19日、硫黄島で行われた戦没者追悼式典に遺族の一人として参加してきました。日米合同の式典と、日本のみの式典の二つが行われました。母の兄、私にとっては伯父が硫黄島で戦死しています。追悼式典に私は初めて参加したのですが、日米が激戦をした南海の孤島に実際に立ち、様々なことを考えさせられた1日でした。感じたことや考えたことのいくつかを書きたいと思います。

太平洋戦争の末期に沖縄での上陸戦がありましたが、多くの人は日本国内での戦いと言うと沖縄を想像すると思います。硫黄島も日本国内での戦いの一つです。ここでも激しい戦闘が行われました。日本側で約2万人の犠牲者(いまだに約1万人の遺骨が眠っています。叔父も遺骨は還っていません)、アメリカ側も死傷者の数は約2万人にのぼります。お互いに戦いあった双方が、合同で追悼式典を行っているのは硫黄島だけとのことです。戦後71年が経過しましたが、多くの犠牲者が眠る島で、平和の誓いをすることの意義深さは計り知れないと感じました。

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硫黄島の場所は知らない人も多いかもしれません。小笠原諸島の南にあります。現在は基地だけがあり、住民はいない島です。クリントイーストウッドが監督をした、日米双方からみた硫黄島の戦いの二部作の映画もあります。「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」です。硫黄島からの手紙では渡辺謙が主演をしています。



sabitasensya.jpg当時のままの錆びた戦車です。島にはトーチカの後など、様々な戦争の爪痕が、戦後71年が経過しても、そのままの姿で残されていました。

私の伯父は、島に上陸してきた戦車に向かい爆弾を抱えて突撃したとのことでした。これも長年分からなかったのですが、数年前に母がある生存者の方から聞くことができて、様子が分かったとのことでした。

私の伯父は長野県の木曽出身で、海外で山林関係の仕事をしたいと希望し、地元の山林関係の高校を卒業したのちに台湾の営林署で働いていたのだそうです。そこで現地召集を受け、硫黄島の守備に行ったとのことでした。歳はまだ20歳を超えたばかりでした。伯父は一番上の長男で私の母は末っ子で、年齢は20歳ほど違います。母は兄のあぐらをかいたところに抱っこされた記憶があるくらいだと言います。


硫黄島の守備についてから家族の写真を送って欲しいと手紙があったとのことでした。それで一度家族の写真を送ったところ、もっと家族みんながきれいに写っている写真を送って欲しいと改めて手紙があったそうです。それで妹たちはみんな晴れ着を着て、写真を撮り直して送ったそうです。きれいな写真を改めて欲しいと望んだ気持ち、その写真をどんな気持ちで眺めていたのか。生きて帰れることはないと思われる状況で、伯父が何を考えていたのか。



jyourikusennohama.jpg上陸戦が始まった南の浜です。おそらくは、伯父はここで爆弾を抱えて戦車に突撃したのだと思います。ただ、本当の最期の姿は、やはり今となっては分かりません。


若い身空の死。個人的な感傷ではありますが、まだしたいことも沢山あったと思います。しかし、故郷にいる両親や自分の弟や妹のことを思い、過酷な状況のなか戦ったのだと思います。もし命があったなら、どんな人生であったのか。


私は、人の体が傷つくことも、人の心が傷つくことも、嫌いです。戦争は人の体と心を傷つけます。そして、命も失われます。誰もが知っていることです。そして、誰もが望んでいないことです。


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これはその海岸からみて右手に見える擂鉢(すりばち)山です。島は地下を要塞化して戦ったそうです。擂鉢山の中も要塞化されていました。上陸部隊を迎え撃つための重要な位置でした。アメリカの艦船による艦砲射撃で山の形は大きく変わったと言われています。伯父も、同じ眺めを71年前に見ていたのだと思います。どんな気持ちで眺めていたのか。


その浜でいくつかの植物が花を咲かせていました。硫黄島は火山ガスが多く、植物が豊かにあるわけではありません。それでも可憐に咲いている花がありました。


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71年前に同じ花が咲いていたかは分かりません。勝手な想像ですが、山林関係の仕事をしていた伯父は、おそらく島の植物にも様々な思いを馳せていたように思います。



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この碑には「静心」と刻まれています。あれから長い月日が経ちました。南海の孤島の硫黄島。何もなければ風の音と波の音しかしない静かな島です。島での滞在は数時間というわずかな時間でしたが、平和への気持ちを新たにし、自らのすべきことは何か、静かに考えた時間になりました。遺族の一人として参加した意義を感じつつ、帰路につきました。


(2016.3.30 公開)

人の心の欠点の一つに「集団心理」があると思います。戦争当時のことを想像すれば、それは理解できると思います。過去の歴史に学ぶべきことは沢山あります。


集団心理では、個であるならば取らない行動が、集団のなかでその個が埋もれて、どこに意志があるのか分からなくなる恐ろしさがあります。そしてその見えない意志に抗うことが徐々にしにくくなってしまいます。集団でのいじめも、初めの状態が徐々にエスカレートする場合は多いと思います。皆さんも実際にそういう場面に遭遇したり見かけたことがあると思います。


ちなみに、今では、いじめや体罰や飲酒運転などは許されることではないという社会認識が当たり前になっています。以前はそこまでの認識にはなっていなかったと思います。人は社会を良くする方向へも集団の心理を動かしていけるはずです。

しかし、人の集団心理が時に暴走してしまうことを人は歴史で学んでいます。だからこそ、平常な心を持っている時に、一つは法律という形で、人がとってはならない行動を規定します。法律はいわば人の暴走防止装置です。

戦争に関しても同じです。私は特定の法律や法案のことにここで言及することはしませんが、明確に望むことは、戦争がより起きにくい方向に法律を維持し続けることを望みます。より戦争が起こりやすくなるような法律の変化は決して望みません。

人は賢くもあり愚かでもあります。賢さを平常の時に積み重ねてこそ人の英知だと思います。愚かな状況になりそうになっても、それを止められる仕組みを作るべきであり、その一つが法律なのだと思います。

そして、自分が自分の個の判断をきちんと持っているか、時々冷静に考えるべきだと思っています。知らぬ間に「集団心理」に流され、間違った方向に進んでいないか、チェックすることが大切だと思っています。

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