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発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群

呼んでみませんか?

突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 小学校の問題は問題あり?】

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何が言いたいのか分かりにくいタイトルで申し訳ありません。


言いたいことは、とりわけ小学校くらいでの学習課題で、

「大人でも分かりにくい抽象的すぎる問題が意外に多いのでは?」

ということです。もしかしたら、昔より徐々に増えているのかとも感じます。


とくに文章理解が絡む文章題の数学や国語に関してですが、本来、小学生には抽象理解は難しいはずなのです。小学生は抽象的理解力がまだ未熟であり、さらに個人差も激しいはずです。それに関して「心の理論」から少し説明してみます。


「心の理論」は抽象理解力の指標とされ近年注目されていますが、多くは4−7歳で通過していくと思われます(つまり社会的な推測力を持つということです。ただし訓練によるものでなく人は自然に通過します)。しかし、小学校の高学年から中学生にかけて通過する子どもさんもいるはずなのです。分かっていそうなのに意外に集団ルールを逸脱してしまうお子さんでも、のちにしっかりした認識を持つ場合も多くみられ、個人差が大きいと思われます。


これも、発達障害の診療が進み、一部の子どもに心の理論の通過の遅れがあることが指摘され始めて分かってきたことではありますが、正常(いわゆる定型発達)と思われる子どもの中にも、かなり心の理論の通過の遅い子どもが混じっているかもしれないことは指摘されていません。


また、心の理論の通過が遅かったとされ、自閉スペクトラム症(ASD)と診断を受けた子どもさんの高校生以降の診療を引き継ぐ場面は多いのですが、そのお子さんたちに社会認識力を問うと、多くが正常の理解をしています。かつては心の理論の通過の遅れが問題とされていても、その後数年で通過している、ということです。ならば、それも個性として捉える寛容さも必要なのではないでしょうか?


広く一般的なこととして、発達的特性が目立たないいわゆる定型発達とされる子どもさんにも、心の理論の通過が遅めの子どもさんが一定割合でいてもおかしくないと思います。


それらを考えた時、小学生の学習課題で、大人も頭をひねるような分かりにくい問題や、抽象的すぎる課題は、子どもの自信を低下させるだけで、あまり意味がないのではないかと思うのです。感受性の高いお子さんは、たった一問分からなくても、それを引きずることがあるかもしれません。これは意外に認識されていない事柄なのですが、多くのお子さんが小学校時代には様々な物事に高い感受性を示します。不登校などの多さも小学校が一番頻度が高い事実にも目を向けるべきと思います。小学生の感受性の高さは社会の予想以上である可能性を考える必要があると思います。


また、それが公開授業の場面や全国学力テストの問題であれば、なおさら「問題」だと思うのです。


少し具体的に例を挙げれば、国語の読解課題で「この時の作者の心情を述べよ」という類の問いに対し、元気良く手を上げて「そんなの作者にしか分からない」と述べたお子さんがいたとのことでした。授業は公開授業のため、それは不適切な回答とされてスルーされたようです。お子さんは自閉スペクトラム症(ASD)との診断を受けているとのことでした。


私は二つの間違いがあると思います。


一つは、本来は作者にしか分からない心情を問題として問うことです。小学生に対し抽象理解力などという曖昧な力を測定しようとするからこそ、大きな間違いが生じるのだと思うのです。もう少し成長し、心情を議論できるくらいの、具体的には中学生以降でするべき課題ではないかと個人的には思います。ちなみに、心情に正解は一つではないと思います。それを明らかにした上での議論や討論はあってもいいとは思います。


二つ目は、元気良く手を上げて答えた子どもさんに対する対応です。ASD特性がある場合では不適切な事柄をスルーする対応も時には必要です。しかし、衆目を浴びているこの場面では、発言に対し自尊心を低下させない配慮がより優先されるのではないでしょうか?「まさにその通りなんだけど、それでも作者はどんな風に考えたと思う? 君だったらどう考えるかな?」という様に返すことはできないのでしょうか?


公開授業をなんとかこなさなければいけないと一生懸命に頑張っている先生には申し訳ないのですが、以上の二点はやはり気になりました。

根本的には、小学生くらいのお子さんたちに抽象度の高い課題を出すこと自体を見直すべきなのだと思います。小学校時代の抽象的な学習課題で自信を失くしてしまう子どもさんは予想以上に多いと思っています。自信の低下は社会に対する信頼心も下げてしまいます。成人以降の様々な社会的な問題の根源の多くは、もしかしたら小学校時代(のトラウマ体験)にあるのかもしれない、とも考えることがあります。私は、小学校では学習の楽しさと同時に、今後の社会認識に必要な基礎知識を学ぶことに重点を置いていいのだと思います。それは知識偏重の教育ではなく、小学生の特性に合わせた学習なのだと思います。


さらには、学習機会のより低年齢化が進んで行く可能性がある社会になっています。中学生の課題を小学生で行い、小学生の課題を就学前に前倒し(こども園での教育構想など)することなどが一部で考えられ、実際に進んでいるところもあると思います。

個人的には、学習の低年齢化より、子どもの特性を理解した上で合理的に教育内容を見直すことの方が、子どもたちの将来や社会の将来のために、より重要なことなのだと思っています。ちなみに、合理的配慮という言葉は、発達的な特性のある子どもに対してのみ使われる特別な言葉ではなく、子ども全体の特性をも含めた一般的な配慮を意味する言葉に今後はなっていくべきだとも思っています。


あくまで私の個人的な考えではありますが、皆さんは如何に思うでしょうか?


(2016.7.21 公開)

子どもは本来は想像力豊かな存在です。しかし、社会が期待する想像力を身につけるのには、時間がかかるのだと思います。大人の枠組みで子どもを捉えるのでなく、子どもが本来持つ力を伸ばし、生きていく上での自信をつけてあげることが、一番大切な教育や躾けの根本なのだと思います。

その素地ができた上で、興味のある課題に挑戦をしたり、時に失敗もしながら、少しずつ自分の枠を広げていくことができれば理想に思います。少なくとも、失敗体験の積み重ねは幸せにはつながりません。


引きこもりやニートの問題、虐待やブラック企業の問題など、社会に現れている現象の理由を考えた時、私は幼少期のトラウマ体験が大きな要因なのではないかと感じることが増えています。他者や社会への信頼心を持てるような教育や社会こそが求められているように思います。

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