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発達障害を
ユニーク=
ヒューマニティ症候群

呼んでみませんか?

突飛な提唱ですが、最後までお読みいただければ幸いです。

Blog【 発達障害の原因仮説?】

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「人」であるならば、


1 不注意がない人はいないでしょう

2 多動傾向がまったくない人もいないでしょう

3 こだわりというものは人は多かれ少なかれ持つものでしょう

4 想像力がいつも多数とまったくずれなく一致する人はいないでしょう

5 対人関係で悩みを持ったことがない人はいないでしょう


これらは「ADHDやASDの中核となる症状」です。しかし「人」であるならば、これら発達障害の特性をすべからく持っているものだと考えます。そこで、遺伝に関して私の考える「仮説」を一つお話してみたいと思います。科学的な根拠は十分ではなく、あくまで私的な仮説と思ってお読みください。


我々「ヒト」は「ホモ・サピエンス」という種に分類されます。アフリカに起源を持ち、そこから全世界に広がったとされています。ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人などの、原人やより今のヒトに近い種も複数あったものの、各々絶滅したとされています。特にクロマニヨン人はホモ・サピエンスと同じ起源を持っていて、ある時から分かれて別種のようになり、数万年前に突然絶滅したとされています。ヒトとクロマニヨン人は遺伝的に見ても近い種であるということです。


遺伝解析に関しては非常に興味深いことが指摘されています。ネアンデルタール人とクロマニヨン人が、実は交雑していた可能性が指摘されています。また、ヒト自体の遺伝子にネアンデルタール人の遺伝子が一部含まれている、つまり過去に交雑があったことも分かってきています。


不確定なことが多い中での推測ですが、シンプルに私の仮説を言うと、実はクロマニヨン人とネアンデルタール人の交雑した結果が、今の我々であるホモ・サピエンスと考えられるのでは、ということです(つまり交雑種は生き残り、より純粋なクロマニヨン人とより純粋なネアンデルタール人はそれぞれ単独では生き残れず絶滅した)。


一体何のことを言っているのか「?」な方も多いと思いますが、遺伝学者でもない精神科医である私がこのように考えるのにはいくつか理由があります。


ヒトに類似する種が多数ありながらなぜホモ・サピエンスだけが全世界に到達できたのかを考えたとき、他の種に比べてその能力が突出していてやや不自然な感じがします。到達できたならばまだ余力もあり、周回で言えば地球一周以上可能なのだと思います。ならばそれなりの原因・理由があるのではないかと考えます。そこで思うことが、ASD的な傾向を持っていた可能性のあるクロマニヨン人と、ADHD的な傾向を持っていた可能性のあるネアンデルタール人が交雑し今のホモ・サピエンスが生まれ、この交雑が種の生存に大きな力を発揮し、特に若い頃には移住を積極的にして、ある程度の年代になると定住して、その移住と定住の繰り返しが世界中にホモ・サピエンスが到達できた理由ではないかと、と考えたりします。


近年、人は皆が多かれ少なかれ発達障害の要素を持っている、と感じている人も増えていると思います。少なくとも私はそう感じています。診断基準なども含めて発達障害の詳細は割愛しますが、クロマニヨン人の生活スタイルがより分かってくると、ASDに似ているやや保守的な生活スタイルであったのでは、と感じます。一方でネアンデルタール人のこともより分かってくると、ADHDと似ている行動的で好奇心が強い印象を抱きます。ちなみにASDとADHDは発達障害の診断では「7対3」くらいの比率になっています。これは人全体でのその傾向の比率も類似と推測されます。一つの表れかもしれませんが不思議な事に、世の中の保守と革新の比率は、政治でみると分かるかと思いますがその比率に「7対3」が重なってきます。人が「好奇心があるのに変化に弱い」という矛盾を常に持っている理由や、各個人の中にも保守と革新が内在していることや、それは社会でも同じであり、社会の中にもたくさんの矛盾がありますが、その理由が、起源を含めて分かるような気がします。


私の想像ですが、

「やや保守的ではあるクロマニヨン人とより活動的なネアンデルタール人の交雑が、偶発的な結果として、現在の人とこの社会を作り上げるまでになった」
「人類はその始まりからすでに発達障害を内に持っているもの」


少し壮大過ぎる考えかもしれませんが、人が皆、多かれ少なかれ発達障害の要素を持っていたり、「人」や「社会」がなぜ相反する矛盾を多く抱えているのか、遺伝や発達障害視点で理解がより深まるならば、それは非常に興味深いことだと感じます。あくまで私的な仮説としてご理解いただければと思います。

(2023.7.18 公開)

発達障害は今だに原因遺伝子の特定には至らず、むしろ研究報告は増えるばかりです。ならばそれを「リフレーミング」してみる、つまり逆転の発想をしてみるなら、障害やマイノリティーの視点からではなく、発達障害の特性とはむしろマジョリティーであり、その中に症状が目立たない人、症状が中程度の人、症状が強い人がいる、という視点を持つことは可能だと感じます。私自身はそのような視点から診療をするようになっています。

人の歴史と共に発達障害がすでにあったとして、もし近年その診断が増えているのなら、もともと発達障害の特性を持っている人そのものにとって、現代の社会は、情報過多なども含めて生きにくい社会になってきているのかもしれません。また、より先進国と呼ばれる社会ほど、その傾向が強いのかもしれません。


※ 今回のブログは私の個人出版の「逃げない勇気」からの抜粋です。「逃げない勇気」第12章(p108-111)に原文があります。ご興味のある方はそちらもご参照ください。

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